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「明けにたえ照りたえ雪の富士の山」 |
(表面)
明妙照妙
雪の富士の山
三世 観峰居渓翠
(裏面)
昭和九甲戌年四月吉辰
為糟屋渓翠師古稀齢記念建之
観峰吟社支部 東雲会
主幹 小林樵暇
(この後、会員35名の姓と俳号) |
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江戸期の俳壇は、芭蕉の門弟、いわゆる「芭門十哲」が主流を占めていました。
その「十哲」の一人に、
「梅一輪一りんほどのあたたかさ」
の句で有名な、服部嵐雪がいます。
この服部嵐雪を祖として、雪中庵系が生まれ、代々「雪中庵」の名を世襲していきました。
雪中庵系は、
「世の中は三日見ぬ間に桜かな」
と詠んだ三世大島蓼太などがいる名門です。
この雪中庵七世である村井鳳州は、明治維新の時、駿府に移り住んだそうです、
その後、旧幕臣が継ぎましたが、雪中庵は内紛で離散。
その元老のひとり、大村青渓が、「観峰居士」と称し、観峰居・初代となりました。
そして、昭和9年春。
この碑は、三世観峰居70歳の古稀を祝って、建立されました。
「三世観峰居」とは、裏面にも名前のある「糟屋渓翠」のことで、この「明妙照妙・・・」の句も、渓翠の作です。
裏面には、会員35名の姓と俳号が刻まれています。
これらの人たちは、皆、当時の有度村民だそうです。
明治末から昭和初期頃まで、この地区では俳句が盛んであったといわれています。
明治43年の草薙神社の句会には、16500余句が集まったという記録があります。
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